2008年09月22日

会津降伏の日


会津の資料館に行くと、時々
『泣血氈(きゅうけつせん)』
という
小さな赤い布ぎれを見ることがあります。


これは会津戦争にまつわる品物です。


1868(慶応4)年8月23日、母成峠の会津軍が敗れ、
新政府軍が一気に会津城下にまで乱入しました。
会津戦争最大の激戦の始まりです。


会津軍は市街戦をくりひろげ、果敢に戦いましたが、
次々と戦死者、殉難者が出るばかりの戦況です。
もはや残された道はただひとつ。


城下にろう城を知らせる早鐘が鳴り響きました。


24日には新政府軍が鶴ヶ城を完全に包囲し、
会津軍は長いろう城生活に入りました。


各所に配置されていた会津藩士たちが、その後も
城へと引き上げてきましたが、
新政府軍の包囲を破り、城に入ることはできません。


彼らは城外でのゲリラ戦を展開し、
新政府軍を悩まし続けました。


しかし、援軍の望みのないろう城は、
ただ時間だけが過ぎていくばかりです。
それでも会津軍は、ひたすら
新政府軍に抵抗し続けました。


冬の到来で戦いが長期化するのを恐れた新政府軍は、
鶴ヶ城の東南にある小田山に大砲をすえて、
城内に次々と打ち込み始めます。


城内には負傷者、戦死者が続出しました。
これにはさすがに抗えず、
城内の地獄にも似たその光景に
松平容保
は、もはやこれまでと
鶴ヶ城の城門に白旗を掲げさせるのです。


ろう城から1ヶ月。
1868(明治元)年9月22日
のことでした。
(ろう城中の9月8日に慶応から明治に改元されています)



降伏の調印には松平容保・喜徳公父子が出席しました。
式場には緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ、
その上で(逆賊扱いの)降伏の調印を行ったのです。


式の後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬようにと、
涙ながらに、その場の緋毛氈を切り刻み
持ち帰ったといわれています。
その赤い布ぎれが、冒頭の『泣血氈』なのです。


会津藩士たちは、この赤い布ぎれを見るたび
その日の無念を思い出したことでしょう。
資料館でこの『泣血氈』を見ると
その思いが伝わってくるようにも感じられるのです。

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posted by ルンちゃん at 14:44| Comment(2) | TrackBack(0) | ・新選組「今日は何の日」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
TITLE: うーん
SECRET: 0
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逆賊となったときの辛さは分からないわけではありません。
西郷もそうでしたからね。
それでもきっと今もその恨みの深さはかわらないんでしょうね。。。
いつもやりきれない気持ちでいっぱいになってしまいます。
でも私は会津の最後まで戦った心意気が大好きです。
Posted by 味のり at 2008年09月22日 21:29
TITLE: 気持ち
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味のりさん こんにちは^^

会津藩(松平容保)は孝明帝の信頼厚く、それゆえ
朝廷へ逆らうつもりも全くないのに、
逆賊呼ばわりされなければならなかった無念は察せられます。
行き処のない思いというのはつらいですね。
Posted by ルンちゃん at 2008年09月24日 10:23
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