2013年04月09日

「八重の桜」展に行ってきました


今、江戸東京博物館で
「八重の桜」展が開催されています。
特別展の期間は3月12日〜5月6日。
そんなわけで、私も行ってみましたよ。

「八重の桜」展
「八重の桜」展 posted by (C)ルンちゃん


大河ドラマ「八重の桜」に連動した内容で、
新島八重(山本八重)さんに関連した
200点余りの品々が展示されています。
八重さんの出身である会津(会津藩)にゆかりの品も
多数展示されていることを期待しつつ、
博物館を訪れてみました。


さて内容は「プロローグ」から始まって、

 第一章 会津の教え
 第二章 幕末の京都 
 第三章 会津籠城 
 第四章 古都復興―覚馬と襄―
 第五章 ハンサムウーマンへ


そして「エピローグ」という構成でした。


「第一章 会津の教え」
は、
会津藩の「什の掟」や
日新館のことについての展示です。
八重も会津に生きる武家の女性として、
しっかり教育されたことがわかりますよ。


この章では、ドラマでも登場した「家訓」や
追鳥狩の様子を描いた「追鳥狩之図屏風」が
見ものです。
これらを見るとドラマでの各シーンが
蘇ってきますね。


「第二章 幕末の京都」
は、文久2年(1862)に
京都守護職に就任した会津藩主・松平容保様がメインです。
硯箱や煙草盆など、容保様の愛用品がありましたが、
どれもとても品があって、使用されていた容保様の
品格や性格が感じられるようです。


また、照姫様の和歌なども展示され、
とても繊細な照姫様の様子を
知ることもできました。


それから京都守護職の章なので、
新選組にちなんだ品もありましたよ。
「池田屋事件感状」や「島田魁日記」など、
見たことのある品ではありますが、
やっぱり新選組関連になると、
自分のテンションが高くなるのがわかりますね〜。


でも今回は、それ以上に
心に響いてしまう物がありました。
それが、こちらです。


孝明天皇のご宸翰
(しんかん)



孝明天皇が松平容保様宛てに直接書かれた文書です。
大河ドラマでも登場していましたね。
以前、私はこのご宸翰を会津の地で拝見していて、
あのときも胸が痛くなったものです。


これは会津藩が逆賊ではなかったという
証(あかし)でもありますからね。
明治の世になって
「容保がこれを持っているのはおかしい」
という動きがあって(逆賊なのにという理由らしい)
高値で買い取ろうとする動きもあったようですよ。


でも容保様は断固、拒否されたのだとか。
容保様は生涯、このご宸翰を大切にされ
肌身離さず持っていたのだそうです。


この章では山本覚馬も登場します。
彼が囚われて薩摩藩邸に幽閉された時に書いた
(正確には野沢鶏一に口述筆記してもらった)
『管見(建白書)』の内容も一部展示されていました。


ただ最初の部分だけなので、
肝心な「政体」「義事院」「学校」「建国術」などの
内容については見られなかったのが、
ちょっと残念でしたね。


「第三章 会津籠城」
はその名の通り、
鶴ヶ城での籠城戦の項です。ここで再び新選組(名簿)も登場。
そして、奥羽越列藩同盟の旗が印象的でした。
他にも会津戦争関連の品々が続きます。


ここでまた、会津でも見た涙血氈(きゅうけつせん)
を見ました。『涙血氈』とは、会津藩が降伏し、
その降伏調印の場に敷かれた
緋毛氈(ひもうせん)のことです。
この緋毛氈の上で松平容保・喜徳公父子は(逆賊扱いの)
降伏の調印を行ったのです。
これはどんなに悔しかったことでしょうね。


式の後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬようにと、
涙ながらに、その場の緋毛氈を切り刻み
持ち帰ったといわれています。


その赤い布ぎれが『泣血氈』でした。
この気持は会津藩士誰もが持っていたでしょうね。
もちろん八重さんも同じでしょう。


籠城戦の後、八重が三の丸の白壁に
笄(こうがい)で和歌を刻んだ
といわれています。それが、

「明日の夜は何国の誰かなかむらん 
     なれし御城に残す月かげ」です。


これが当時の八重さんの思いですね。


「第四章 古都復興―覚馬と襄―」

ここで新島襄の登場です。
八重と新島襄のゆかりの品々が並びます。


この章の展示品は見たことがないものばかりで
面白かったですね。同志社社史資料センター提供の品が多く、
こんなときじゃなければ見られませんよね。


山本覚馬と薩摩藩のつながり、
そして覚馬と襄のつながりが
いろいろわかる展示になっています。


新島襄さんて、私の中では
「同志社大学を作った人」くらいの
イメージしかありませんでした。
でも今までいろいろな史跡巡りをしている地で、
何度もお会いした人だったのです。


例えば安中でしょ、京都でしょ、そして函館。
別の件で巡っている私の史跡ルートの中に、
何度も登場してくる人物、それが襄さんでした。


特に襄さんについて調べていたわけではないので、
なぜその場所に彼が登場するのか
わからなかったのです。


でも最近になってこの複数の「点(地点)」が
線として繋がるようになりました。
それだけ多少なりとも、新島襄さんについて
知ったということかしらね。


会場には八重さんと襄さんの暮らした
京都の部屋が復元され、
また襄さんの所持品も多数展示されていました。
この展示では彼の内面に触れた気もしますね。


例えば手紙。あんなに長くて
字の細かい手紙は初めて見たかもしれません。
手紙の内容から、八重さんと襄のことが偲ばれます。
数々の展示で二人の心に触れたようで、
なんだかとてもやさしい気持にもなれました。


「第五章 ハンサムウーマンへ」

襄は八重に何を見たのか。
たぶんそれはこの一言に尽きるでしょうね。
それは「内なる美」です。


襄さんは八重さんと出会う前に、
自分の結婚相手に求める理想像を、
父宛の手紙に書いています。そこには
「内面が素晴らしく、教養をもった人」が理想で、
日本の女性のような「何か」がない女性とは
生涯を共にすることは絶対に出来ないと
書き綴っていたそうです。


でもその理想を満たす女性が、
まもなく襄さんの前に
現われたっていうことですよね。


襄が亡くなった後の八重さんは、
その後も活動的に過ごします。こういうところが
襄のいう「ハンサム」なのでしょう。


「日本赤十字社篤志看護婦人会正装用帽子」などの
展示が続きます。


 
「エピローグ」

そして最終章。
ここでは昭和3年(1928)に行われた、
昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王の
婚儀について語られています。


妃殿下になられたのは、
旧会津藩主松平容保の孫にあたる
勢津子様(成婚にあたり節子を改名)ですよ。


この婚儀は
「逆賊」「朝敵」の汚名をきせられた
旧会津藩士族にとっては、
その復権に繋がるものとして、
大いに喜ぶべきものでした。


あの『泣血氈』を刻んだ日から
60年も経ってからのことです。


その年の11月17日、
京都の黒谷で取られた
京都会津会秋季例会での集合写真が
最後の展示品です。


そこには、会津松平家当主保男、
松平恒雄、山川健次郎などと共に
八重さんの姿もありました。


その時参列した人々の心の中には、
同じ想いで満たされていたことでしょう。
写真パネルの前に立つと、
そんな会津の人たちの想いが
伝わってくるようです。


というわけで、200点余りの展示は
とても見ごたえがありましたよ。


八重さんについては、会津戦争での話は
以前から知っていましたが、
今回の展示によって、より一層深く
彼女を知ることができたと思います。


特に彼女の生き様には、
見習いたい部分がありますね。「内なる美」は
すぐに顕れるものではないでしょうけれど、
私も少しは、それが見出せるように努力したいです。


がんばろうっと!!

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posted by ルンちゃん at 23:51| Comment(0) | 他の『特別展』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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