2013年11月24日

興岳寺

多摩の史跡案内  〜その34〜
     興岳寺 〜千人同心、石坂弥次右衛門の墓〜

八王子には昔、
「八王子千人同心」と呼ばれる人々がいました。


八王子千人同心とは、
もとは武田氏の家来でしたが、武田氏が滅んだ後
徳川家康の家来となり、江戸の西の守りとして、
八王子に置かれた人々のことです。


最初は250人ほどが置かれましたが、
守りの強化のために500人、
その後には1000人と増えたことで、
「八王子千人同心」と呼ばれることになりました。


彼らは半農半士の生活を行っていました。
それは平素は農業に従事し、いざ事が起きれば
刀を持って戦うという暮らしぶりです。


しかし、江戸時代も時が経つとともに
戦争に借り出されることもなくなり、
慶安5(1652)年からは、東照宮の警備のために
日光に赴くようになりました。


石坂弥次右衛門義礼(よしかた)は、
幕末時代の八王子千人同心の1人で、
同心頭でもありました。


その時、弥次右衛門が日光にいたのは、
定番の萩原友親が急死したからで、
代番として赴いていたのです。


日光勤番として日光に赴任してから1ヵ月後、
新政府軍が日光に入ってきました。
彼は日光が戦禍にまみれることを懸念し、
抵抗することなく明け渡したのです。


しかし、八王子に戻った弥次右衛門を待っていたのは、
「家康を祭る日光を守った」という賞賛の声ではなく、
「一戦も交えずに日光を明け渡した」という
非難の言葉でした。


彼はその責任を取る形で、
慶応4(1868)年4月10日に切腹したのです。


その後…
年月が過ぎると共に、彼の取った行為は
「日光を戦禍から救った」として
高く評価されるようになりました。
昭和41(1966)年には、
彼の菩提寺に顕彰碑が建ちます。


また「八王子千人同心が日光を守った」
ということから、昭和49(1974)年には、
八王子市と日光市は姉妹都市となり、
今に至っています。


弥次右衛門のとった行為が、
二つの都市の架け橋となったのです。

興岳寺
興岳寺 posted by (C)ルンちゃん


石坂弥次右衛門の顕彰碑
石坂弥次右衛門の顕彰碑 posted by (C)ルンちゃん

曹洞宗 萬松山 興岳寺
東京都八王子市千人町1−2−8

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posted by ルンちゃん at 23:19| Comment(0) | ・多摩の史跡案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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