2018年09月11日

横須賀を味わう


浦賀訪問の後、
せっかくなので横須賀まで行って、
夕食を味わってきましたよ。
横須賀といえばいろいろありますが、
「カレーの街 よこすか」を謳っているくらいなので、
今夜はカレーです


日本人とカレーとの出会いは、幕府の
遣欧使節団のメンバーの一人だった
三宅秀という人がカレーを目撃したのが
始まりだそうです。その時は
「至って汚き物なり」という印象だったようです。


その後、会津藩家老の家の出であり、
白虎隊士でもあった、後の
東京帝国大学総長の山川健次郎氏が
渡米の船の中でカレーを食べたという話もあります。


そんな幕末にも関係のある(?)カレーなので、
本日の夕食にはもってこいですよね。訪問したのは、
「よこすか海軍カレー本舗」というお店です。
こちらには「よこすか海軍カレースペシャル」
というメニューがあるのです


このカレーは明治41年の
「海軍割烹術参考書」という書物にある
カレーのレシピを参考に作ったものだそうですよ。


海軍がカレーを食べるようになったのは、
明治時代の日本海軍の食事を改善してから。


栄養バランスを改善するために
西洋食を取り入れた中に、カレー味のシチューが
あったそうです。日本人好みに小麦粉を加えて
とろみを付け、ご飯にかけて食べるようにしたのが、
好評だったそうですよ。


そして故郷に戻った兵士達によって
全国的に広まり、現在のように家庭で
カレーを食べるようになったんだとか。
(そして西城秀樹のCMによって、
 ますますカレーが家庭に普及したのでしょうね^^)


海上自衛隊では遠洋航海中に
曜日がわからなくならないようにと、
金曜日には必ずカレーを食べるというお話は
有名ですよね。現在ではすべての部署に、
この習慣があるらしいですよ。


さて、当時のカレーの特徴は、
カレー粉と小麦粉を牛脂で炒めているところです。
そして牛肉か鶏肉を入れ、ジャガイモ、たまねぎ、
人参は必ず入れるとのことです。


それに、牛乳とサラダを添えて、
薬味にチャツネを入れるのが基本なんだとか。


確かに、テーブルにカレーが運ばれてきた時、
一緒に牛乳が付いてきました。
それがとても不思議だったので、
店員さんに理由を聞いたくらいです。


横須賀海軍カレー
横須賀海軍カレー posted by (C)ルンちゃん


いただいた
「よこすか海軍カレースペシャル」は
優しい味で、なんとなく昔食べた
カレーを思い出すようでした


さて、横須賀には
カレーの他にも気になる物があります。
それは「横須賀ブラジャー」という物です。


えっ?なに?
と思いましたが、
実はその正体はお酒なのです。


街の新名物として
2011年11月11日に誕生したそうです
横須賀中央駅近くの「若松マーケット」
で飲めるお酒です。5月には
「横須賀ブラジャーまつり」というのも
開催されるそうですよ。


ブランデーとジンジャーが
入っているので「ブラジャー」といいます。
横須賀のいくつかのお店で提供してもらえます。
「よこすか海軍カレー本舗」さんでも
置いてあったので注文しました


横須賀ブラジャー
横須賀ブラジャー posted by (C)ルンちゃん
右が「横須賀ブラジャー」です。
左はKちゃんの注文したご当地ビール^^



ブランデー1とジンジャー1に対して
炭酸水3で割るカクテルだそうです。
ブランデーのまろやかさとジンジャーのキリッとさに、
ほんのり甘みも加わって、とても飲みやすいですよ。


男の人はその名前から
チョッと注文をためらうらしいですが、
横須賀に来たときは、是非お試しあれ。


横須賀も、まだまだ探索したい街ですが、
本日はこれまで。
また行ってみたいですね〜


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posted by ルンちゃん at 11:56| Comment(0) | 新選組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月04日

浦賀へ再び


夏休みを利用して、
浦賀に行ってきました。
私にとっては三度目の訪問です


今回はまだ、かの地を訪れたことのない
Kちゃんの「浦賀に行きたい」の言葉で、
浦賀行きが決定しました。
でももちろん、私も行きたかったのです。


それというのも、7月の「総司忌」の時に、
「浦賀奉行所の跡地が更地になった」
という情報を得ていたからなのです。


以前、浦賀を訪れた時(かれこれ10年前)は、
浦賀奉行所跡地には団地が建っていました。
それは土地所有の住友重機械工業さんの
従業員の社宅でした。


それが、2003年に旧浦賀工場(浦賀ドッグ)が
閉鎖したことにより、社宅も2013年に閉鎖され、
2017年6月には団地の撤去作業が始まって、
更地になっていたのです。


私が以前に訪れた時、現場で見た
奉行所の名残りらしいものは、
敷地を取り囲むようにあった堀の石垣と、
石橋の一部であろう石が数本あっただけでした。


その場所が、現在どのようになっているのか、
とても興味があったんですよね。
そんなわけで、本日は浦賀訪問のお話です


横浜から京急線を利用して、浦賀駅へやってきました。
以前来たのは10年も前だし、ウォーキングの
お仲間さん達と一緒に来た(連れてきてもらった)ので、
行き方は全く覚えていませんでした^^;


でも電車を降りて町を歩き出したら、
当時の思い出が蘇ってきましたよ。
駅を出ての、この道。
あっ!見たことある。覚えている。


そう思いながら、歩いているうちに
「大衆帰本塚」に到着。この地で命を落とした
先人達の思いを忘れぬようにと建てられた碑です。
なんと、この碑文の文字は
中島三郎助さんの筆致だそうですよ。


大衆帰本塚
大衆帰本塚 posted by (C)ルンちゃん


三郎助さんが好きな私としては、
それを見ただけで、なんだか嬉しくなりますね


ちょっと中島三郎助さんについてお話しますと、
彼は浦賀奉行所の与力だった人で、
ペリー来航時には「副奉行である」と言って、
ペリーらの船に乗り込んでいきました。


当時「副奉行」という役職はありませんでした。
つまりペリーらを偽って彼らに接近した
っていうことですよね。なんという大胆さ。


三郎助さんについては、榎本武揚や
土方歳三らと共に箱館に行き、
千代ヶ岡陣屋で息子2人と共に最期まで戦い抜いた人
と言ったほうがわかるかもしれませんね。
そんな中島三郎助さんのふるさとでもある浦賀です。


さて、次に訪れたのは、
「浦賀コミュニティセンター分館」です。
こちらは以前にも訪れたことがある所で、
二階に「中島三郎助資料室」があるのが嬉しいです。


浦賀奉行所の模型や、鳳凰丸や咸臨丸の
模型などもあります。そしてなにより、
中島三郎助さんに関する資料が多数あるので、
訪問にはぜったい見逃せない所です。


その館では、展示品をじっくり拝見し、
関連資料でいただけるものは、
しっかりといただいてまいりました。
満足まんぞく!!


ずっと見ていたいけど、
今回は見学場所が沢山あるので、
先に進みます。


次に訪れたのは「愛宕山公園」です。
「浦賀園」とも呼ばれるこちらは、
横須賀で一番古い公園だそうですよ。
しかもここは中島三郎助さんの為に
作られた公園でもあるのです。


「浦賀園」入口
「浦賀園」入口 posted by (C)ルンちゃん


こちらには、大きな「中島三郎助招魂碑」
建っています。それは三郎助の生前に
彼と深くかかわった人と、地元の人々によって
建てられたものです。その碑を建てるために
この地が選ばれたのです。


この場所はすごく印象深かったので、
よく覚えていました。
以前と同じつもりで階段を上がろうとしたら、
あれ?前と違っている?


実は前回来たときは10月だったのです。
今回は8月のせいか、
階段に草が密集して歩き難い。


私が当時味わった訪問の嬉しさを、
Kちゃんにも味わってもらうつもりで、
先に歩いて貰おうとしましたが、
あまりに草ぼうぼうなので、
来たことのある私が先に
歩くことにしましたよ^^;


中島三郎助招魂碑
中島三郎助招魂碑 posted by (C)ルンちゃん


しかも、この公園からの海の眺めが
とてもステキだったのですが、
今回は草ぼうぼうで
見えずじまいでした。残念〜!!
こちらには「咸臨丸出航の碑」や、
幕末には関係ないけど
「与謝野晶子夫妻の碑」もあります。


「愛宕山公園」から海側の方へ出て、
チョッと一休み。こちらには
眺めのいいあずま屋があります。まわりも
とてもいい感じの所で、ずっといたい気分です。


検問所跡
検問所跡 posted by (C)ルンちゃん


この場所は、その昔、検問所があったのです。
ここに来ないと江戸湾(東京湾)に入れなかったので、
昔は沢山の船が来航したでしょうね。


そしていよいよ、本日の第一目標である
「浦賀奉行所跡地」へ進みます。


浦賀奉行所は、享保5(1720)年から
慶応4(1868)年まで、150年間続いた奉行所ですよ。
奉行所のあった土地は、しばらく住友重機械工業さんの
所有地でした。しかし、最近になって
横須賀市に寄贈されたらしいです。
素晴らしい!!!


浦賀奉行所跡地
浦賀奉行所跡地 posted by (C)ルンちゃん


2020年でちょうど、
奉行所開設300周年となるので、
浦賀ではイベント等を思案中だそうです。
奉行所を建てる計画もあるようですが、未定のようで、
どうなっていくのかが気になりますね。


奉行所の名残り
奉行所の名残り posted by (C)ルンちゃん


個人的には奉行所の再建を願いますが、
地元の人の為に役立てて欲しいとも思います。
その時だけのものではなく、将来にもつながるような、
有意義な物を作って欲しいですね。


再び来た道を少し戻って、「浦賀の渡し」で反対岸へ。
この「浦賀の渡し」は私の大好きな場所です。
渡し舟が対岸にいるときは、合図を送って
こちらに来てもらうのですよ。


ポンポン船
ポンポン船 posted by (C)ルンちゃん


この渡し、なんと享保10(1725)年から
あるのだそう。300年近くも町の人々の
生活路となっているのですね。現在は
水上の市道2073号線として、
「浦賀海道」と名付けられ人々に今も愛されています。
私達も乗らせてもらって、対岸へ進みます。


岸に下りてすぐの所に、中島三郎助さんらの
お墓のある「東林寺」があります。
ここにお墓があるのは
三郎助さんの遺言でもあったらしいです。
ご子孫の方が今も管理しているのですね。


東林寺
東林寺 posted by (C)ルンちゃん


一通り見学が終わったところで、昼食です。
東林寺近くのイタリアン料理のステキなお店、
La Pentolaさん。


La Pentolaにて
La Pentolaにて posted by (C)ルンちゃん


以前、こちらに来たときは、
おしゃれなお店などなかったので、
ここでお食事がいただけたのは、
本当に嬉しかったです。


コースを味わう
コースを味わう posted by (C)ルンちゃん


お酒もいろいろあるようですが、
史跡めぐりの途中だったので、
そちらはいただけず…


デザートも^-^
デザートも^-^ posted by (C)ルンちゃん


でもまた来ることがあったら、
今度は夜にも訪れてみたいですね


レストランから対岸を望む
レストランから対岸を望む posted by (C)ルンちゃん


他にも浦賀の史跡はありますが、
今回見学したかったものは見終えたので、
観音崎方面へと向かいます。


観音崎の手前、腰越地区の他
三浦半島には会津藩士とその家族のお墓が
いくつか点在しています。それは
文化7(1810)年から10年間、幕命により
江戸湾防備のために、この地にいたからです。


今回はその中でも有名な「三昧堂(さめど)」
墓地を訪問します。こちらには
23墓の墓石があります。以前にも
訪れたことがありますが、相変わらず
わかりにくい所ですよね。


そして再び
そして再び posted by (C)ルンちゃん


でも以前来た時は、
浦賀訪問とは違う日に来たので、
自分の中で浦賀と観音崎が繋がった感じが
なんだか嬉しいです。


会津藩のお墓は三浦半島全体に数箇所あります。
他の場所の中には訪問した場所もありますが、
いつかまた、全部の墓地を訪問できればと思います。


この後、せっかくなので
観音崎灯台にも上がって、
周りの景色を堪能しました。
そして横須賀も訪問したのですが、
その話はまた次回にさせていただきます


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2018年01月28日

伊庭八郎さんの征西日記

遊撃隊の伊庭八郎さんは、
家茂様上洛の際に、警備のために
京都を訪れています。
その時に日記を付けていたんですよね


その「征西日記」を
いつかは読みたいなとずっと
思っていたのですが、機会がなくて
なかなか読めずにいたのです。


最近になって、 山村竜也氏が
現代語訳をして本にしてくださいました。
それで、念願かなって「征西日記」を
読むことができました



幕末武士の京都グルメ日記
「伊庭八郎征西日記」を読む
(幻冬舎新書) [ 山村竜也 ]



伊庭八郎さん、人気がありますよね〜
私も伊庭さんは大好きです。


伊庭八郎さんは、
心形刀流宗家に生まれた人で、
幼少の頃は剣術よりも漢学や蘭学の方が
好きだったようです。


でもその後、剣術の稽古を始めると、
やはり血筋なのでしょうか。
めきめきと上達し「伊庭の小天狗」などと
呼ばれるようになりました。


講武所ができると、
その教授方を務めたりもしました。
そして将軍が上洛する時には、
その護衛として共に上洛したのです。
「征西日記」はその時の日記です。


その後、鳥羽・伏見の戦いの時には、
遊撃隊の仲間達と共に参戦します。


新政府軍が江戸へと進軍してくると、
それを阻止しようと箱根の関所へ向かい、
そこで小田原藩兵と戦闘となります。


箱根山崎の戦いでは、
左腕を切断してしまうような重傷をおいます。
しかし、その後も戦うことをあきらめず、
イギリス艦で箱館へ向かい
旧幕府軍に合流するのです。


箱館政府では、歩兵頭並、遊撃隊の隊長となり、
再び戦いの場へと向かいます。
しかし木古内の戦いで
胸部に被弾してしまいました。


片腕をなくしても一度は蘇った
伊庭八郎さんでしたが、胸部の被弾は
当時の医学ではどうすることもできず、
開城の前夜に五稜郭でモルヒネを飲み
死亡します。享年26歳でした。


そして五稜郭の土の中、
土方歳三さんの隣で眠っているともいわれる
(確実な話ではありませんが、そんな話もある)
伊庭八郎さんなのでした。


彼の「征西日記」によれば、
元治元(1864)年1月14日から
6月25日まで日記を付けていたようですね。


その間、京都や逢坂で、
いろいろな人に会ったり、
名所旧跡を訪問したり、
美味しい物を食べたりしています


まるで、現代人の物見遊山のようなんです。
内容はとても微笑ましくて、
ホッとするお話なんですよ。


あの時代、新選組の歴史を通してみると、
殺伐としている様子ばかりが目にとまります。
でも伊庭八郎さんは、比較的のんびりと
過ごされていたようですね。


その後の伊庭さんのことを知っていると、
彼がそんな時間を過ごしていたことが、
とても有意義で貴重なことだったように
感じます。


また、この日記を読んでいると
伊庭八郎さんが、周囲の人たちから
慕われていた様子も伺われて、ますます
伊庭八郎さんが好きになるのでした


ところで、
伊庭八郎さんと土方歳三さんは
試衛館時代からの知り合いだったみたいに
描かれることも多いですよね。


実際のところはどうだったんでしょう?
実はそれがすごく気になっていたんですよ。
それが、この日記を読めばわかるのではないか
と思っていたんですよね。


で、その結果はというと…
なんとなく二人の関係が
わかるような部分はありました。


まあ、その部分も含めて、
彼のほのぼのとした様子も知りたい
と思ったら、どうぞ読んでみて下さいね。


幕末武士の京都グルメ日記
「伊庭八郎征西日記」を読む
(幻冬舎新書) [ 山村竜也 ]



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