2009年11月12日

西の地蔵

多摩の史跡案内 〜その31〜

      西の地蔵 〜日野宿〜


日野宿、東の地蔵よりおよそ1?余り、
宿場の西のはずれに
「西の地蔵」
と呼ばれる地蔵堂があります。


ちょうどJR線日野駅前にある甲州街道から、
井上源三郎の墓のある宝泉寺の前を通り、
日野坂が始まろうとする坂下です。


その坂下の由来から、坂下地蔵とも呼ばれています。


坂下地蔵堂の入口には、
元文2(1737)年に建立されたという
大きなお地蔵様2体と、
小ぶりなお地蔵様6体が並んでいます。
赤い帽子と前掛けが鮮やかです。


西の地蔵
西の地蔵 posted by (C)ルンちゃん


またお堂の中には青銅で造られた
地蔵菩薩坐像が安置されています。
正徳3(1713)年、江戸小舟町の井田八左衛門が
近郊の祈願者232人の協力を得て
作ったといわれています。


お堂は江戸時代にあったものは、
明治の末の火事で焼けてしまいました。
今のお堂は昭和7年に建て替えられ、
近隣の自治体のご婦人達が守り続けています。


西の地蔵 お堂
西の地蔵 お堂 posted by (C)ルンちゃん


昔は、この坂下地蔵から日野坂を上がって
八王子や甲州方面へと進みました。
ここから先はしばらく人気も少なく、
幕末当時は追いはぎも出たとか。


でも今はJR線の線路で遮断され、
通ることはできません。
わずかにこのお地蔵様のいるお堂の周辺だけが、
当時を偲ばせる空間となっています。

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posted by ルンちゃん at 10:45| Comment(0) | ・多摩の史跡案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月06日

斎藤一諾斎の顕彰碑

多摩の史跡案内 〜その30〜

     斎藤一諾斎の顕彰碑 〜清鏡寺〜

 
帝京大学八王子キャンパスのすくそばにある
清鏡寺(せいきょうじ)は、大塚観音とも呼ばれ、
人々に親しまれています。

091103-4
清鏡寺 posted by (C)ルンちゃん
清鏡寺のお堂。
燈籠とのぼりが印象的!



曹洞宗のこの寺は
文禄元(1592)年開創といわれます。
でもそれより以前、
天台宗としての庵もありました。


なんでもその昔、この地に一泊した
播磨の住人が、夢見に童子の導きを受けて、
それが縁で仏師運慶に
観音像を彫ってもらったとか。
(はっきりとはわかりません^^;
 真意の程のわからぬ運慶作は
 日本中にあるらしい…)



その後、長寛2(1164)年に
天台宗のお堂を建てて
その観音様を安置したのが、
始まりともいいます。


この大塚観音は別名
「御手観音」とも呼ばれています。
それは夢見に立った童子の手型を、
観音像を彫った際に一緒に彫ってもらい、
それをこの観音像の胎内へ
納めてあるからだそうです。


この清鏡寺に、新選組隊士
斎藤一諾斉の顕彰碑
があります。

091103-1
斎藤一諾斉の顕彰碑 posted by (C)ルンちゃん
燈籠の影があってわかりづらいですが、
文字がずらりと書かれています。



斎藤一諾斎
は慶応4年3月の頃までは、
甲州都留郡強瀬村にある全福寺の住職でしたが、
近藤・土方率いる甲陽鎮撫隊に
物資を提供するなどで、
全面協力をした人物です。


一諾斎は還俗(げんぞく)の後、
彰義隊として参戦しますが、
その後、新選組に入り会津戦争に参加します。
そして仙台において離隊の後、
明治政府に降伏します。


釈放後、土方の親戚である
日野の佐藤家に立ち寄ったりしていますが、
それが縁となったのか
八王子で寺子屋を開くことになり、
地域の教育にあたるようになりました。


病気の為、一旦は甲州に戻りますが、
再び八王子に赴き
明治7年12月18日、62歳で生涯を終えます。
彼はその時まで、
終始地域教育の普及に尽力したのです。


そんな彼の教え子達、
林福重や井上隆治らを中心として、
彼を称える顕彰碑が明治14(1881)年に
建てられました。


一諾斎の弟子の中には、
新選組に関わりのある者も多く、
顕彰碑の裏には、


「日野 佐藤俊宣(彦五郎の長男)」
「石田 土方隼人(歳三の兄・喜六の長男)」
「上石原 近藤祐五郎
 (勇の娘婿・甥の勇五郎の誤字か?)」

などの名前もみられます。

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碑の表面 posted by (C)ルンちゃん
一行目に「一諾斎」の文字が読めます。


091103-3
碑の裏面 posted by (C)ルンちゃん
佐藤彦五郎長男と歳三甥の名前も
 


境内には、小さな滝もあり、
風情のある場所になっています。


そしてチョッと蛇足なんですけど、
この清鏡寺のお隣くらいに、
天然温泉スタンド「観音の湯」
というのがあり、
天然温泉の持ち帰りができます(有料)


「天然 温泉スタンド」と書かれた看板と大きな赤玉。
そして鉄塔が立っているので、それを目安に歩けば
清鏡寺も見つけ易いかもしれません^^

塩釜山 清鏡寺(大塚観音)
東京都八王子市大塚1278

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2009年11月02日

東の地蔵

多摩の史跡案内  〜その29〜

     東の地蔵 〜日野宿〜

 
旧佐藤彦五郎邸のあった日野宿は、
甲州道中(甲州街道)の
府中宿と八王子宿の
ちょうど間にあった宿場町です。


すぐとなりに大きな宿場があったので、
日野宿はどちらかといえば、
川を渡る際の休息場として
利用されていました。


宿場は京都のある西の方角を上として、
上宿・中宿・下宿の3つに分けられます。
中央の中宿にあったのが本陣ですよ。


ちなみに、今ある
旧佐藤彦五郎邸(現日野宿本陣)

最初の頃は脇本陣でしたが、
大火の際に本陣が焼けたためか、
幕末くらいから本陣として使われたみたいです。
(はっきりとはわかっていないようですが…)



貞享元(1684)年以後に整えられた道は
日野渡船場
のあった
「現・立日橋」から南に進み、
鍵辻になって西へと曲がり、日野宿に入ります。
そこが江戸から来た人たちの
宿場の入口だったんですね。


その鍵辻の手前に、
福地蔵と呼ばれる「東の地蔵」があります。


今あるお地蔵様は明治28(1895)年のものですが、
それ以外にも、文化8(1811)年の馬頭観音石塔などが、
この場所にあります。
いかにも宿場のはずれという感じです。


それらを眺めていると、ここに幾多の人々が
行き来した情景が浮かんでくるようです。
きっと、江戸から出稽古に来た近藤勇沖田総司
日野から府中や江戸に向かった土方歳三も、
この道を通っていたのでしょう。


お地蔵様は、今も行き交う人を見守っています。

日野宿 東の地蔵
日野宿 東の地蔵 posted by (C)ルンちゃん

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