2014年10月28日

周斎先生のご命日


久しぶりの
新選組版「今日は何の日」です。


新選組局長・近藤勇の義父といえば、
近藤 周斎先生。
周斎という名は隠居してからなので、
先生と呼ぶなら隠居前の名前「周助先生」
といった方がいいのかもしれませんけどね。
(でもあえて周斎先生と呼ばせていただきます)


周斎先生は、
武蔵国多摩郡小山村(現・町田市小山町)で
生まれました。


二十歳前に天然理心流2代目・近藤三助に弟子入りし、
三助の死後には、近藤姓を名乗り
天然理心流宗家3代目となります。
(但し周助の3代目襲名については未だに謎が多いです)


47歳の頃、江戸の市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町)に
天然理心流道場・試衛館を構え、
それから10年の後、調布の宮川家から
勝五郎(後の勇)を養子に迎えたのでした。


本来なら養子の勇が道場を継いた後は、
楽隠居でのんびり余生を送り、
時々道場の様子を眺めて
穏やかに過ごしたことでしょう。


でも文久3(1863)年に勇らが浪士組として
上洛したため、江戸で勇らの身を案じることと
なったのでした。


その後周斎は中風を患い、
体調を崩すようになります。
養父の身を案じて、
勇が江戸へ帰ることを幕府に願い出ても、
多忙ゆえ許されないこともありました。


慶応3(1867)年、
勇らは念願の幕臣取り立てとなります。
周斎も病床の中で、息子の出世を
さぞかし喜んでいたことでしょう。


土方歳三が隊士募集を兼ねて江戸に下った際、
病気療養中の周斎を見舞いますが、
歳三らが江戸を発ってまもなく
周斎は死去しました。享年76歳。


その日が慶応3年10月28日です。
(西暦に換算すると1867年11月23日)


周斎先生の墓は幕府に縁の深い
港区芝の金地院にあります。
墓碑には丸に三ツ引きの家紋と
「周斎近藤邦武之墓」の文字を
読むことができます。

近藤周斎の墓
近藤周斎の墓 posted by (C)ルンちゃん

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posted by ルンちゃん at 23:30| Comment(0) | ・新選組「今日は何の日」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月07日

迷惑な入隊志願者

すごく久しぶりですが、
新選組版・今日は何の日でするんるん


これは、新選組局長・近藤勇が京を離れ、
江戸に戻っている頃のことです。


近藤が江戸に戻っていたのは、
将軍上洛を要請する建白書の提出と、
東国出身の新しい隊士を
募集するという目的からでした。


でもそれとは入れ違いに、
土方歳三が留守を預かる京都の新選組に、
2人の若者が多摩から訪ねてきたのです。


それは1864(元治元)年、10月7日のことです。
    (西暦に換算すると11月6日)



その2人とは、
松本延三郎の息子・元太郎(松木村の元太郎とも)と、
小林重太郎で、どちらも近藤勇の門人だと名乗ります。


土方が2人を見て苦い顔をした理由は、
入隊希望と言いながら、
刀も差していない容姿だったことと、
近藤・土方を、気安く呼び捨てにしていたからです。


同年の6月、新選組は池田屋に討ち入り、
多くの不逞浪士を殺傷・捕縛しました。
また7月の「禁門の変」でも、
幕府の一部隊として参戦しています。
今や「新選組」の名は、天下に知れ渡っていたのです。


泣く子も黙る新選組の局長に、こんな知り合いがいることは、
体裁が悪いばかりではなく、隊の面目も立ちません。


どうしたものかと途方にくれたようですけど、
たぶん、早々に2人には
多摩へ帰ってもらったことでしょう。


そして
「二度と、このようなことがないようにしてもらいたい」
と、念を押すように、江戸にいる近藤勇と
日野の名主で義兄でもある佐藤彦五郎宛へ
手紙を書いたのでした。

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posted by ルンちゃん at 00:09| Comment(2) | ・新選組「今日は何の日」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月15日

横倉甚五郎の命日


新選組版、今日は何の日 です。


横倉甚五郎は、
土方歳三や井上源三郎のふるさと・日野市の隣りにある
八王子市堀之内の出身です。
天然理心流の門人でもありました。


彼は1864(元治元)年、
近藤勇らの東帰の際に行った隊士募集に応じて、
新選組に入隊しました。


油小路の変(伊東甲子太郎ら暗殺)では、
大石鍬次郎らと共に現場に出動しています。
その後に起こった伏見墨染の近藤狙撃事件にも
遭遇しました。


1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの際には、
土方歳三らと共に参戦します。
江戸帰還後も甲州勝沼、会津戦争を経て、
けっきょく蝦夷地へも渡り、箱館戦争にも参戦するのです。


箱館戦争の終焉・五稜郭降伏の前に、弁天台場が降伏した時、
甚五郎は台場にいましたが、そのまま当地で謹慎となりました。


しかし坂本龍馬ら暗殺の嫌疑をかけられ、
同嫌疑で護送される元見廻組・今井信郎らと共に、
東京に送られ取り調べられることになるのです。


獄中では坂本龍馬暗殺について、
「何も知らない」と暗殺を否定し続けます。
しかし、その投獄の地で
とうとう命果てることになりました。


1870(明治3)年8月15日

(新暦に換算すると1870年9月10日)
それは弁天台場降伏後、1年以上も経った日のことです。
享年37歳。


甚五郎の墓は、現在八王子市鑓水の大宝寺にあります。
昭和51年の秋に横倉家で建てられた供養墓で、
今もご子孫によって、手厚く供養されています。


弁天台場で謹慎の際に詠んだという
彼の辞世の句が残っています。

義をたて つくせしことも 水の泡
           打よす浪に消て ながるも
」 


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