2011年10月25日

清河八郎暗殺の地


大江戸新選組史跡めぐり  
      PART.5 麻布 一之橋 〜清河八郎暗殺の地〜


麻布十番からすぐの場所に、
一之橋という橋がみられます。
ここは清河八郎が、幕府の刺客・佐々木只三郎らに
斬られた場所といわれています。


清河八郎は、新選組の前身・浪士隊を結成した人物。
この人がいなければ、近藤勇らはたぶん
京都へ行かなかったでしょうし、
新選組もなかったかもしれません。


そういう意味では、
新選組にすごく縁のある人物ですよね。


近藤勇らと決別し、京から戻った清河は、
浪士組で集めた浪士達を使って、
攘夷を実行しようと計画します。
でも彼の行動は幕府が追っていて、けっきょく
幕府の刺客に襲われ絶命するのです。


文久3(1863)年4月13日のその日、
上ノ山藩士の金子与三郎に招かれ
一之橋近くの金子宅を訪問し、
その帰り道での出来事でした。


金子宅を訪問する前、
清河は高橋泥舟宅に立ち寄ります。
そこで泥舟の妻の澪に、歌を渡したそうです。


その歌のひとつが有名な
魁がけて またさきがけん 死出の山
    迷はせまじ 皇(すめらぎ)の道
でした。

 
清川には、何か感じるものがあったのかもしれませんね。
そんな清河の様子に、泥舟や澪は不吉なものを感じ、
金子家訪問を引き止めますが、
「約束を破るわけには行かない」と外出し、
そのまま帰らぬ人となったのです。


今の一之橋には、当時のおもかげはなにもなく、
「一之橋」という文字がなければ
そのまま通り過ぎてしまいそうな場所ですよ。


一之橋
一之橋 posted by (C)ルンちゃん


ところで、アメリカの通訳士だったヒュースケンは
清河が結成した「虎尾の会」のメンバーでもある
樋渡八兵衛や伊牟田尚平らに暗殺されました。


その暗殺現場が、清河が暗殺された「一之橋」から
ほんのすぐそばの「中之橋」付近だったのです。


偶然ではありますけど、
清河にとっては皮肉な出来事にも思えますよね。
歴史は時に、不思議な巡り会わせを
与えてくれるものです。

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2011年10月21日

近藤周斎の墓


大江戸新選組史跡めぐり  
      PART.4 金地院 〜近藤周斎の墓〜


芝・増上寺のお隣で、
東京タワーのお向かいにあたる場所に、
金地院(こんちいん)があります。

金地院
金地院 posted by (C)ルンちゃん


こちらは臨済宗南禅寺派のお寺で、
以心崇伝(いしんすうでん)が開山しました。
崇伝は京都南禅寺金地院の住持でしたが、
徳川家康に招かれ書記を務めるうち、
次第に頭角をあらわし、側近となっていきます。


崇伝といってもピンとこないかもしれませんが、
慶長19年(1614年)の方広寺大仏殿等の再建の際、
梵鐘銘文の文字中に「国家安康 君臣豊楽」とあるのを、
崇伝らが「豊臣家が家康(=徳川家)を切断し、
豊臣家の繁栄を祈念する不吉な文字」と解釈し、 
大阪の陣のきっかけを作った人物(の1人)
とも言われていますよ。


他にも「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」などの
法度にも参画し、「黒の宗相」とも呼ばれた、
徳川家康・秀忠・家光三代に深く関わりのあった人です。

金地院の葵の紋
金地院の葵の紋 posted by (C)ルンちゃん
この紋でも、徳川家との関わりがわかりますよね^^



その崇伝が家康の死後に
江戸に開山したのが、この金地院です。
だたし戦前は今の場所の他にも
敷地があったそうですが、
戦後に現在の地にまとめたとのことです。


このように徳川家とはとても縁の深いお寺ですが、
その敷地のひと隅に、天然理心流宗家の三代目であり、
新選組局長・近藤勇の義父でもある
近藤周斎のお墓があるのです。

近藤周斎の墓
近藤周斎の墓 posted by (C)ルンちゃん


周斎の墓碑には「周斎近藤邦武之墓」の文字と、
丸に三ツ引きの家紋があります。
裏面には「祠堂 金二十両納之」
の文字もみられます。


土方歳三が隊士募集を兼ねて江戸に下った際、
病気療養中の周斎を見舞いますが、
彼らが江戸を発ってまもなく、慶応3年10月28日に
周斎は死去しました。享年76歳。


その後、このお寺に埋葬されますが、
このお寺には周斎の他は、
近藤家やその縁者らしき人は
埋葬されていません。


当時の近藤勇は見廻組与力格、
れっきとした旗本となっていました。
江戸幕府においてはそれなりの地位も
あったということで、
幕府からの要請などもあって、
徳川家ゆかりのこの場所に
埋葬されたのかもしれませんね。
(埋葬の詳細は不明との住職様のお話^^)


最期を看取ることができなかった勇には、
徳川家ゆかりの地への埋葬が、
ひとつの親孝行だったのかもしれません。


このお寺には、
南部氏(南部藩など)の墓所もあり、
江戸住まいだった正室や子女らの立派な墓が
ひっそりとたたずんでいます。


勝林山金地院
東京都港区芝公園3−5−4

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