2011年09月07日

横浜にある新選組隊士の墓


今回、史跡めぐりをした横浜ですが、
じつは新選組隊士のお墓もあるのです。


その隊士の名前は、川村三郎(=近藤芳助)。


彼は幕臣の川村家に生まれますが、後に
近藤芳三郎の養子となり、
近藤芳助と名乗ります。


その養子時代に近隣にあったのが、
近藤勇の試衛館道場。
彼はそこで剣術修行に励みます。


彼の新選組入隊は1864(元治元)年以降、
近藤らは隊士募集も兼ねて江戸に戻っていますが、
その頃に彼も入隊したようです。
新選組では伍長に任ぜられます。


鳥羽・伏見の戦いでは負傷してしまいますが、
江戸に帰った後も、流山や宇都宮、会津の戦いなど、
他の新選組隊士たちと行動を共にしていたようです。


しかしその後彼らとはぐれ、
仙台で新政府軍の捕虜になり江戸へ送還。


尋問の際に、新選組隊士だったことは言わずに
幕臣・川村三郎として通し、
最終的には静岡で罪を許されます。
そして十数年の後、
横浜に住むようになりました。


横浜では代言士(今の弁護士のようなもの)を始め、
市議会議員、県議会議員などを務めます。
そして社会にも貢献し、1922(大正11)年、
80歳という長寿を全うしたのでした。


もと新選組には住みづらかった明治時代に
大成することのできた、
数少ない新選組隊士の一人です。


そういえば、
2009年の「なんでも鑑定団!」で
ご子孫の方が近藤勇らの写真を
鑑定してもらったことがありましたね。
あの時登場した隊士(の名前)が、
この近藤芳助ですよ。思い出しましたか?


さて、そのお墓は横浜市西区の東福寺にありますよ。

東福寺の赤門
東福寺の赤門 posted by (C)ルンちゃん

東福寺は、この赤門が目印です。
その赤門をくぐり、左側の道を少しあるくと
またひとつ門があります。


そこをさらに進んでいくと
階段がありますので上っていきます。


しばらく歩くと大きな木の下に、
川村三郎のお墓がありました。
墓石の台座には「川村家」の文字があり、
正面にご本人と奥様のお名前がありますよ。
墓標に手をあわせ、
きちんとご挨拶してきました。

新選組隊士、川村三郎
新選組隊士、川村三郎 posted by (C)ルンちゃん


こうして夕暮れも近づく中、
史跡めぐりが終了しました。
締めくくりに、隊士の墓参ができてよかったです。


でも川村三郎のお墓が一番わかりづらくて、
見つけるのにかなり苦労しましたよ〜^^;
それにこの時期は蚊も多いので、
何ヵ所も刺されましたしね…


史跡めぐりそれぞれに発見があり、
また思うところもあり、
いい経験がたくさんできました。
多少の苦労があってもまた機会をつくって、
史跡めぐりをしたいです。


また今回の史跡めぐりでは、歳月堂のお二人に、
多大なるご協力をいただきました。
この場を借りて、御礼申し上げます。
ありがとうございました。


歳月堂さんで発行している、
新選組史跡めぐりのための本は
使い勝手がよくて、とても便利ですよ。
もしあなたが史跡めぐりをしようと思ったときには、
これらの本を思い出してみて下さいね。

⇒ 歳月堂HP

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posted by ルンちゃん at 00:35| Comment(3) | ★横浜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月03日

日米和親条約締結の地

8月末に出かけた、横浜史跡めぐりの2回目です。

前回の「生麦事件編」はお楽しみ頂けましたか?

過去記事 ⇒ 生麦事件の全容をみた!

さて お次は「開国編」ですよ〜。


生麦事件の足跡を追って本覚寺へまで行った後、
神奈川駅まで戻って、横浜駅へと向かいます。
そこからJR線で関内へ。


横浜スタジアムは横浜公園内にありますが、
その公園のひと隅に、石灯籠がありました。
これは岩亀楼の石灯籠というものです。

岩亀楼の石灯籠
岩亀楼の石灯籠 posted by (C)ルンちゃん


幕末の頃、この辺一帯は入海でしたが、
その後埋め立てられ、
岩亀楼などが開業し国際社交場として
賑わいました。でもその後、
慶応2年に大火があり一帯が焼失し、
岩亀楼も移転します。


焼失跡地は外人たちの要望もあって、
日本初の洋式公園になりました。
その公園が今の横浜公園なんですね。
岩亀楼はその後、他の地に転々とし最後は廃業します。


この地には大火の焼失で
当時を偲ぶものはありませんが、
この石灯籠だけが元の土地へと戻り
当時の名残となっていますよ。


横浜公園から海に向かって歩きます。
するとステキな洋館が見えてきます。
ここが横浜市開港記念会館です。
1917年に市民の公会堂のために建てられました。

ジャックの塔
ジャックの塔 posted by (C)ルンちゃん
「ジャックの塔」という愛称で呼ばれているのが
 横浜市開港記念会館です^^



前に私は来たことがあったのですが、
こちらは初めてのKちゃんのリクエストで訪れました。
でも時間があまりなかったので、
ステンドグラスをメーンに見学しました。


ちなみにこの建物は、
「ジャックの塔」とも呼ばれていて、
「横浜三塔」のひとつとなっています。


三塔は古くから横浜に入港する船が、
目印としていた三つの塔のことです。
他に、クイーンの塔(横浜税関)・
キングの塔(神奈川県庁)があり、
どれも独特の雰囲気を持っています。

クイーンの塔
クイーンの塔 posted by (C)ルンちゃん
横浜税関のことですよ^^



最近では
この三塔が同時に見える場所(三箇所)をすべて巡ると、
願いが叶うという「都市伝説」があるらしいです。
それを「横浜三塔物語」というらしい…


今回は行きませんでしたが次回の史跡めぐりでは、
ぜひ三箇所めぐって願いを叶えてみたいです♪


キングの塔を抜け、
クイーンの塔を左手に見ながら、道を右折すると、
横浜開港資料館が見えてきます。


横浜開港資料館



ここはペリーが上陸したといわれている場所です。
ペリーが二度目に来航したとき、応接所を設置し、
1ヶ月ほど協議をして日米和親条約を結びました。
上陸の証拠がこちらの木。


玉楠(タマクス)の木
玉楠(タマクス)の木 posted by (C)ルンちゃん


これは玉楠(タマクス)の木といって、
もともと開港前から
横浜村の鎮守の木として立っていました。


教科書などで見たことがあるかと思いますけど、
有名な「ペリー提督横浜上陸の図」の中で、
ペリーが500人の武装水兵を従えて上陸している
その右端に描かれている木ということで
歴史的に超有名な木なんですよね。

参考 ⇒ ペリー提督上陸の石版画
     (タイムスリップよこはまHP)


でも当時あった木は横浜大火や関東大震災の火事で
焼けてしまったそうなんです。
でも焼かれた木の根元から新しい木が芽生え、
それがこんな大樹になって
今もスクスク成長しているのです。
植物のパワーはスゴイですよね!


横浜開港資料館は旧館と新館があり、
旧館は昭和初期の建物ですが、
旧英国総領事館だったものです。


新館の方では展示室や資料室もあり、
開国や横浜について知ることができますよ。
展示室1ではペリー関連の史料があります。


ペリーの絵や写真はよく知っているものもありますが、
それ以外にも開港時の横浜写真や錦絵など
いろいろ見ることができて
興味は尽きません。


二階の展示室2では
「庶民の暮らしや風景」や「横浜ものはじめ」
「外国との交流」について知ることができます。


他にも年4回の企画展示を行っていて、今回は
横浜に住む写真家・広瀬始親氏の撮った写真が
展示されていました。


「広瀬始親写真展 横浜ノスタルジア・
      特別篇〜昭和30年頃の街角」



昭和の頃の写真など、見に来た方達は
自身の当時を振り返って、
懐かしくご覧になっていましたよ。

日米和親条約締結の地碑
日米和親条約締結の地碑 posted by (C)ルンちゃん


横浜開港資料館の隣には開港広場があって、
日米和親条約締結の地碑が立っています。
ここから明治維新への
カウントダウンが始まるのです。
幕末の動乱もここから始まるわけですね。


というわけで幕末の始まりともいえる
横浜の史跡めぐり「開国編」でした。


予定していた場所は他にもありましたが、
見るものが多いので、
やはり時間がありませんでしたね。
横浜の史跡はホント多いです。


でもこんな風にテーマを決めて歩いてみると
当時について理解することができますよ。
新たな発見もあって、
ますます歴史の深みにはまっていく。
こうなるともう抜けだせませんね〜^^;


そんな世界にはまりたい
(=楽しみたい)というなら、
あなたも史跡めぐりに
出かけてみて下さいね


ところで…
横浜史跡めぐり「開国編」は終わりましたけど、
新選組好きの二人が これで終わるか
と思ったら大まちがいです。


実はまだ史跡めぐりは続くんだな〜。
次回はおまけのコーナー。
いえいえ、
じつはこれがメーンだったりして… 

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posted by ルンちゃん at 23:49| Comment(2) | ★横浜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月31日

生麦事件の全容をみた!


8月最後の日曜日、
史跡めぐりに行ってきました。
今回の史跡めぐりは横浜です。
横浜の史跡めぐりは、これで2回目なんですよ。


今回もいろいろと巡ってきましたよ。
何回かに分けてお話しますね。


さて今回の史跡めぐりのテーマは
「開国」「生麦事件」です。
この二つはその後の
「倒幕 ⇒ 明治維新」へと進んでいく
発端となる出来事ですよね。


行った順番にお話しますと
生麦事件関連からになるので、
まずはそちらからです。


一緒に巡ったのは、
昨年の函館に一緒に行ったKちゃんです。
彼女も新選組が好きなので、会うと話は尽きません。
お互いに調べてきたものを合体させ、
有意義な史跡めぐりをすることができましたよ。


京急線の生麦駅から、
国道15号線(第一京浜)へ向かって歩き、
その国道沿いを右に歩いていくと、
キリンのビール工場の入口のある小道にぶつかります。
そこが昔の東海道です。


以前、この工場に
見学に来たことがあったのですが、
その際、工場の入口にある歴史看板を目にしました。
それが有名な「生麦事件」の看板だったんですよね。


それは生麦事件の犠牲になったリチャードソンが、
この地で絶命したという説明看板です。


大名行列の中に立ち入ってしまった
4人のイギリス人のうちの1人、
リチャードソンは薩摩藩士たちに斬りつけられて
必死に馬で逃げますが、
途中でとうとう力尽きて落馬します。


そこへ追いついた薩摩藩士がやってきて、
重症の彼を見て、手当ての施しようがないと判断し、
止めを刺したのがこの場所です。


でも現在は、ここに碑はありませんでした。
高速道路工事のため、平成28年まで
同じ旧東海道のもう少し川崎方面寄りに
仮移転中です。


生麦事件の碑 遠景
生麦事件の碑 遠景 posted by (C)ルンちゃん

   生麦事件の碑
生麦事件の碑 posted by (C)ルンちゃん


その場所がこちらですよ。この碑は
明治になってから建てられたものだそうで、
建てた当時は屋根はありませんでした。


石の痛みが目立つようになって
保護のため屋根が作られたみたいです。
今は仮の場所にありますが、工事が完了した後は
元の場所に戻されるそうです。


リチャードソン絶命地から川崎方面に歩いていくと、
「生麦事件発生現場」
の説明看板が
設置されているのを見ることができます。
そこが、彼らが襲われた場所です。

生麦事件発生現場
生麦事件発生現場 posted by (C)ルンちゃん


昔の街道は道幅も狭く、
こんなところで大名行列に遭遇したら、
どうしたって馬4頭は邪魔です。
現場を実際に見てみると、そんなことも
簡単に想像することができます。

生麦事件現場から横浜方面を望む
生麦事件現場から横浜方面を望む posted by (C)ルンちゃん


これらの場所は生麦駅から、
そんなに遠くはありません。
歩いて難なく行かれる距離です。


そしてここまで来たなら、
もう1箇所立ち寄りたい場所があります。

生麦事件参考館
生麦事件参考館 posted by (C)ルンちゃん


生麦事件参考館

私設資料館ですが、
こちらの淺海武夫館長さんは35年も前から
国内外の生麦事件関連の史料を集めていらして、
ずっと生麦事件を研究なさっている方です。


その知識は豊富で、何の史料も見ずに
立て板に水が流れるが如く当時を語る様子は
スゴイとしか言いようがありません。


各地の講演会にも呼ばれているそうですよ。
私達も1時間ほどのビデオを拝見しましたが、
なんとなくわかっていたつもりの
自分達の生麦事件の知識は、
実はほんの一握りの内容だったことに
気付かされるのでした。


この生麦事件参考館に来たことで、
見たことのない貴重な史料も拝見し、
当日の薩摩藩の様子、
リチャードソンらがこの地に来たいきさつ、
その後の当事者たち、
生麦事件から薩英戦争に至る過程、など
知らなかったことがいっぺんにわかり、
視野が広がった気がします。


生麦駅から再び電車に乗り、仲木戸駅で下車。
国道15号線の道より2つ程手前の道を、
横浜方面に歩いていくと
ほどなく神奈川宿の高札場を見ることができます。
その高札場を過ぎて歩いていくと、
成仏寺があります。

成仏寺
成仏寺 posted by (C)ルンちゃん


ここは開国時に、
アメリカ人宣教師の宿舎になったところです。
ヘボン式ローマ字をつくった有名な
医師ヘボンも一時住んでいた場所です。


そのまま突き当りまで道を歩いていくと、
浄瀧寺
が見えてきます。
ここは開港当時、イギリス領事館があった所です。

浄瀧寺
浄瀧寺 posted by (C)ルンちゃん


浄瀧寺の碑
浄瀧寺の碑 posted by (C)ルンちゃん


生麦事件の場所からは、
ここが一番近い領事館になりますが、
当時イギリス領事館は、
すでに外国人居住地に移っていたみたいですね。


ですから
生麦で藩士たちに斬りつけられたイギリス人たちは、
もっと先の本覚寺まで行ったようです。
(何気に私達も彼らの辿った道を進んでいました)


本覚寺
はアメリカ領事館があったところです。
襲われた4人のうちの1人(女性)マーガレットは
この本覚寺まできますが、馬が石段を登れなかったので、
そのまま居住地の方へ向かったそうです。

本覚寺の階段
本覚寺の階段 posted by (C)ルンちゃん

本覚寺
本覚寺 posted by (C)ルンちゃん


あとの2人
マーシャルとクラークは怪我をしながらも、
この本覚寺にたどり着き、先述の
ヘボン医師の治療を受けたようです。


その後、生麦事件は波紋を広げ、
薩英戦争へと発展していきます。
(薩英戦争についても教科書に載っていない、
 興味深い話が多数あります^^)



こんな風に、
今でも生麦事件の足跡を追うことができますよ。
なかなか有意義な史跡めぐりでした。
今回の生麦事件関連は、これで終わりますけど、
生麦事件参考館で聞いた話では、
生麦事件の話は本当に奥深いです。


今回の生麦関連の史跡めぐりが有意義に行えたのは、
淺海館長さんのおかげです。
ありがとうございました!


あなたも生麦に行ったなら、是非この参考館に
立ち寄ってみて下さいね。
きっといろいろなものが、得られるはずですよ。

注…生麦事件参考館は予約が必要です。
(館長さんのご都合で、今は予約が取り難いかもしれません)

横浜史跡めぐり 開国編
に続く…

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posted by ルンちゃん at 00:29| Comment(2) | ★横浜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする